犬の死から改めて学ぶ一日一日を精一杯生き抜けているかどうかの考察
ニュージーランドにいた頃、一緒に暮らしていた犬のオスカーが本日亡くなりました。
一緒にいた期間はわずか10か月ほどでしたが、それだけ一緒に暮らしていれば愛情は十分すぎるほど湧きます。
近くの大きな公園に散歩に連れていったり(全然ぼくの言うことは聞かないので、無法のように好き勝手走り回っていた)、
実質の飼い主であるフラットメイトが帰ってくる音を聞くと、ドアの前で幼いころ人間に切られた半分の長さのしっぽを振ったり、
猫がたまに現れる庭を家の中から永遠のように見つめていたり、
猫が現れた途端、家の中を駆けずり回ったり。
とても愛らしい犬だったことをカナダにいる今でも覚えています。
オスカーの飼い主から届いたメールによると、平均寿命よりまだまだ若い年で亡くなったということでした。
人間だけじゃなく、犬もいつ心臓が止まってしまうかなんて分からないもの。
そんなことを考えているうちに、最近は「一日一日が人生最後の日」と思って生きられていないことに気付きました。
「もし自分が明日死ぬとしたら、今日何をすんだろう?」って考えると、
自ずと本当に自分がしたいこと、しなきゃいけないことを優先すると思うんです。人間って、そういう生き物なはず。つまらないことを避けるはず。
もちろん健康な体を幸福にも持っていて、そんな風に毎日を生きるのって難しいと思うのですが(ぼくにとっては、とっても)、そうできたらいいですよね。
最近の自分は、自分にないものばかり求めて、人を見て羨ましがって、自分に落胆して。そんな風に生きてると、どんどん自分にうっすら張り付いていた自信が剥がれていくような気がして。別に負ではないと思うのですが、鈍化した日常が流れていたような気がするんです。仕事は頑張るだけじゃダメで、恋愛は待つだけじゃダメで、夢は持っているだけじゃダメで。
あと24時間後に死ぬとしたら、きっと目から血が出る勢いで何でもやれると思います。
だから、今までの自分の思考を今日ここでストップして、もっともっと体の内側にある蝋燭を燃やして、不慮の事故に遭ったとしても
「あぁ、ここで人生終わっちゃうけど、悔いは全然ないな」
って思いながら死ねるように、毎日を生きるべきだと強く感じました。
オスカー、想い出をありがとう。
そして、自分が動かなくなったことで泣いてくれる人がいることの幸せを、天国で実感しているのではないかと思います。
空の上でもう一度会えたらいいな。
あと、見た目は変わらないかもしれないけど、もっとパワフルに生きる勇気を持ったぼくを空の上から見守っていてください。