お客さま。時間の流れ。生きる勇気。笑うこと。
ぼくが今のスーパーに勤めて出してから約2年と9ヶ月ほどが経ちました。
あっというまです。
小さなスーパーではありますが、最初の頃から変わらず足を運んでくれるお客様もたくさんいます。
店内で出合えば必ず「こんにちは!」と声をかけてくれる気のいいおばちゃん。
「よっ!」と威勢のいい声で笑いながら近づいてきてくれる個性的なおじいちゃん。
毎回毎回、お店で合うと「よう頑張っとるな。よう頑張っとる。」と言ってくださるご夫妻。
そんな方たちのおかげで、毎日楽しく仕事ができているのは、本当にありがたいことです。
接客業(小売業)の魅力のひとつは、1日にたくさんの人に出合える可能性があることだと思うので、
こうしていろんな人のあたたかい部分に触れられることは、ある意味感情がどこか欠落しているような自分にとって、非常にありがたいことだと思っています。
また、お客様と直接触れ合わなくても「あっ、この人今日も来てくれてる。ありがたい。」とか、
「いつもご夫婦でいらっしゃってくれて、なんだか見ていてうらやましいな。こんな二人がいいな。」とか思ったりもしています。
その逆で、カゴへ商品を投げるように入れるような人は「モノを大切にしない人なんだろうか。」とか、
レジに並んで店員の「ありがとうございます。またお越しくださいませ。」を無感情に交わしていく人なんかを見ると
「なんだかもったいないなぁ。」とたまに思ったりもします。
要するに、毎日たくさんのお客様と出合うこと、お客様を観察することで、実は学べることがたくさんスーパーには溢れているわけです。
その中でも、先日、ひとりのお客様の姿が特に印象に残りました。
ぼくが入社した約3年前からよく週末に旦那さんと一緒に来てくれる元気な奥さんがいて、
毎回ぼくの上司と仲良く会話されていたのを思い出します。
「どのブドウが美味しいの?」とか「岡ちゃん(上司の名前)、今日はあの野菜はないの?」とか気兼ねなく聞いてくれる方で、
見ていて気持ちがいい人でした。
その方が今から1ヶ月くらい前に来店されたとき、杖をついて青果コーナーを歩いていました。
ぼくは少し驚いて、「足が痛いのですか?」と聞くと、
「ずっと前から病気を抱えていて、最近は歩くのが痛いの。」と少し笑みを浮かべながらおっしゃいました。
こういうときどう言えばよかったのか今でも分からないのですが、
「商品を取るときとか何でもいいので、お手伝いできることがあったら言ってくださいね。」とだけ言いました。
お客様は「ありがとう。」としっかり笑いながら言ってくれました。
足の痛みを笑みに隠していらっしゃることは、顔を拝見して分かっていました。
そして今から3日前ぐらいになるでしょうか、お店の入り口前で作業をしていると、その奥さんが娘さんらしき方といっしょにいらっしゃいました。
車椅子でした。
「おはよ。来たよ。」
といつもの笑みを浮かべて、真っ先にぼくに言ってくださいました。
そのときぼくはなんだかとてもショックで、動揺しました。
このたったの6文字に涙が出そうになりました。
「なんでこんな善良な人に世界は痛みを与えるのだろう。」と。
それでもその日、「美味しい八朔を選んで欲しい。」と頼まれたので、ぼくは八朔の袋入りをひとつ手渡しました。
そしてぼくに向けられた「ありがと。」という言葉には、ある種の将来を悟った落ち着きと、菩薩のような優しさが加わっていて、
ぼくは「こちらこそいつもありがとうございます。」と、満面の笑みをお客様に向けながら心がどこか遠くへ行ってしまったような気持ちになりました。
足の痛みに耐える姿を想像することは容易く、それでも笑って人に感謝できる姿勢に
「なんて強い人なんだろう」と思いました。「生きる勇気を持っている人なんだ」と。
昔読んだナイチンゲールの本に、病気はこう定義されていました。
「毒されたり衰えたりする過程を癒そうとする自然の努力の現われ」
でも今、そう思えるのは軽度の治る見込みのある病気だけで、治癒の見込みのない病気は
進行するのをじっと見守るだけの残酷さと人間のドラマがあるだけだと思いました。
それでも病気は家族との繋がりを見直したり、自分の人生の回想など、人間の忘れがちな大切な時間を与えてくれるものだとも思っているので、
あのお客様にも、そんな時間が来ているのだと勝手に思っています。
ごちゃごちゃと書きましたが、つまり、何が言いたかったのかというと、
どんな病気になったとしてもいつまでも人に幸せを与えることができる人間で在りたいな、ということ。
人としての美しさみたいなものを忘れたくないな、と。それはいわば、感謝し続ける、という気持ちに他なりません。
奥さんの病気がこれから少しでも良くなりますように。
あまり神という存在を信じてはいないぼくですが、こういうときぐらい神様に祈っても罰は当たらないだろうと思うわけなのです。
ではまた。